性別によって可能性を否定しないのは妥当であるが…
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「男と女は育てられ方によって決まるので、男も女も同じように育てればよい」「男らしさだとか女らしさというのは迷信で、それは男が女性を支配するために作った虚構だ」…そう言う主張の元にジェンダー・フリー運動が1980年代以降の日本の教育界を席巻した。
男の子でも女性がやるようなことをやっても良いし、女の子でも男性がやるようなことをやっても良い。
男女の性の違いによって可能性を否定することは悪だという認識が広まった。
これ自体は画期的なことであったし、妥当な事であっただろう。
男の役割・女の役割、男でなければ、女でなければ、という価値観は、工業化が始る前の伝統社会の価値観であるから、現代社会に適していると言える根拠もないわけだし。
ところがこの「男女には肉体以外に差はない」という主張には実は科学的根拠も統計学的根拠も殆どなかった。
1980年代にいくつかそう言う研究はあったが、1990年代には脳機能についての研究やDNAの解析が進み、逆に男女差が生まれたときから生じることが次第に明らかになった。
男と女では見えている世界自体が違っているし、聞こえている音も違う。
同じ数学の問題を解く場合でも、男女で使っている脳の場所も異なる。
また生まれたときから脳内にあるタンパク質が男女で違う。
そう言うこともわかってきた。
つまり男と女は、生まれたときから、いや生まれる前から既に違っていたのだ。
歯科医のホワイトニング
男女の性差はやっぱりあった
肉体的な違いがなければ、男も女も同じである。
そう言う考えの基に広まったジェンダー・フリー。
こういう仮説を立てる事自体は問題はない。
仮説を立ててそれが正しいかどうか証明する。
これは科学一般では当り前の研究姿勢である。
1980年代頃にアメリカで流行ったこの説は、SF映画などでもいくつか取り入れられていた。
たとえばスタートレックでは、理性と理論を重んじるヴァルカン星人は、男であろうが女であろうが「ミスター」という敬称で呼ばれていた。
また1987年に公開されたヒット映画「ロボコップ」では、未来の警察では、男女とも同じ部屋で着替えていて、出動命令が下ると、女性警官が男性の目もはばからずにトップレスになって着替えて出動るようなシーンもあったように記憶している。
ところが残念ながら、「男女の性差が先天的にはないということを示す科学的根拠」は乏しかった。
それどころか逆に1990年代から男女の性差は先天的に存在することを示す医学的・統計学的研究結果が次々に出された。
たとえば脳の言語中枢は左半球(左半分)に偏っていて、事故などで頭の左半分にダメージを受けると、話すことができない事はずいぶん前からわかっていた。
ところが色々調べてみると、これには性差があって、女性の場合は事故や脳梗塞などで左半球を損傷しても、男性のように話ができなくなるようなことが少ないのである。
つまり女性は言葉を理解したり話すときに、脳の左側も右側も使って、聴いたり話したりしていることがわかったわけだ。
また近年は脳の血流の様子などがCGイメージ化できるようになったため、人間が脳のどの部分を使ってモノを見たり聞いたり考えている場所が、男と女ではかなり違っているということもわかってきた。